美濃国諸家系譜 記載の 種田氏之事 についての考察
前回のブログ記事で、種田には「薩摩種田」と「美濃種田」(共に仮称)として二系統に分けて考えてみたいとしましたが、今回は「美濃種田」について考察してみます。
東京大学史料編纂所蔵『美濃国諸家系譜』における「種田氏之事」の部分は、このブログのトップバナーとしても使わせて頂いています。
この種田氏之事の冒頭で、
「新羅三郎義光四代 加々美次郎遠光 小笠原長清十代政康の子孫 美濃守安八郡三塚住人 種田信濃守政貞」との種田の元祖の記載が有ります。
それぞれの人物の繋がりを見てみます。
河内源氏:1000年頃、河内国に根拠地を置いた清和源氏の一流
加々美次郎遠光:甲斐源氏の祖とされる源義光の孫 源清光の四男(清光の父義清の子とする説もある)
加々美次郎遠光の次男の小笠原長清は小笠原氏を、三男の南部光行は南部氏の祖となった
小笠原宗長:小笠原長氏?の子
小笠原貞宗:小笠原宗長の子
小笠原長基:府中小笠原氏当主。先代守護小笠原政長の長男
小笠原長清十代政康:小笠原長基の3男で長将、長秀の弟。宗康、光康の父
小笠原長清十代政康の子孫が種田信濃守政貞であるとしています。
小笠原政康は1400年頃の人物。政康の子孫であるならば、1400年以降に種田が誕生したことになります。
大垣市の種田一党が持つ古文書ならびに口伝では新田義貞に名を授かったとのこと。であれば1333年頃となり、70年も差異が生じます。
美濃国諸家系譜は出所不明、あいまいな情報であるとのうわさもあるようで、確度はひくいものと思われます。
となると種田一党が保管する古文書の方が信ぴょう性が高くなるのですが、所有者様の了解を得ておりませんので、インターネットで公開することはできません。
古文書の写しは入手しており、また古文書を解読された文章も手元にあります。
この美濃種田文書の中に「正慶元年(1332年)安八郡に小城を構え近辺五十余町歩を坡田(披田?開墾の意か)す、義貞公欣然と思し召し種田姓を賜った」との記載がある、との報告があり、私はこの解釈が最も合理的だと感じています。
薩摩に渡った相良氏が種田の氏を受け、「美濃種田」が新田義貞より名前を授かったという二系統の種田は、同時代であることに理由があると思います。
時は混迷を増す1300年代の南北朝時代。
薩摩の相良氏は上相良と下相良に分かれて戦うこととなりました。相良氏の流れをくむ薩摩種田はどちらに加勢したのだろうか。下相良(南朝)だとすると次の仮説につながります。
南朝の旗手であった新田義貞は、南朝を盛り上げるための策の一つとして種田氏を広めることを思いつき、東海道の行軍中、美濃の地で領地を広げつつあった郷士を見出して種田の姓を与えたのではないか、と仮説を立ててみます。
うーむ。仮説を立てたまではいいのだけれど、どうやって検証したらよいか・・・。
またも五里霧中・・。
では、いつかまた。
1248年 入来院文書 清色亀鑑に種田の記載あり
前回の記事からずいぶんと時間が空いてしまいました。
先日、何気なくインターネットで種田を検索してみたところ、種田のご先祖を探しておられる方のブログを見つけました。
私も同様にブログでご先祖探しをしており、ブログというツールで情報公開をしているのであれば、直接メールをしても受けてもらえるのではないか、という不安と期待をもって思い切ってメールを送信いたしました。
私の不躾な問い合わせにも関わらず、先方の種田様は丁寧にご対応くださいました。同姓のよしみとはいえ、ご厚情に感謝です。
さて、その出会いによって暗中模索となっていた私の探索に光明が差し込みました。
先方の種田様は鹿児島県にルーツをお持ちとのこと。私が伝聞していた「新田義貞より拝命された種田」とは異なる情報でした。
このブログでは、鹿児島ルーツの種田さんを「薩摩種田」、岐阜県ルーツの種田を「美濃種田」と仮称して区別しようと思います。これは公式とされている呼称ではなく、あくまでも私による仮称です。
情報をお寄せいただいた「薩摩種田」の種田様がルーツの原典とされておられるのが「入来院文書38 清色亀鑑 10」に記載のある文章でした。
以下引用
『614-669大職冠藤原鎌足15代孫下野權顕、遠州相良荘を領して相良を氏とす。7代の後胤、相良三郎長頼の6男、稲留五郎頼貞三代の孫、稲留彦右衛門尉即ち長経なり、一二四八年入来院定心就封の時、長径を以て家老となす。これより入来院の家臣となる長径種田の宇都邑を領す、依りて種田を氏とす。』
引用以上
最後の一文「1248年~種田を氏とす」。私の現時点の調査結果では、種田という名称の最古記録です。
続いて上記の文章を読み解いてみたいと思います。
『これより入来院の家臣となる長径種田の宇都邑を領す、依りて種田を氏とす。』
これは「入来院の家臣である長径種田が宇都村を管理することとなったので、種田氏とする」と読めます。
その前の文章『稲留彦右衛門尉即ち長経なり。』
これはそのまま「稲留彦右衛門尉は別名で長経という」と読めます。
つまり、稲留彦右衛門尉=種田長経、ということになります。
入来院文書 清色亀鑑から、種田は稲留がルーツである、と読解できますが、これはかなり確度の高い情報であると思われます。
次に稲留氏のルーツを探ってみたいと思います。
稲留氏は相良氏の庶流
相良氏は藤原南家の流れをくむ工藤氏の庶流、工藤維兼(これかね)が祖
工藤氏は藤原南家の庶流
藤原南家(ふじわら なんけ)とは、奈良時代の藤原不比等の長男である藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、朝廷内では房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲流藤原南家の工藤氏・伊東氏・二階堂氏・相良氏など武家の名族を数多く輩出した。家紋は「下り藤」である。
入来院文書から導き出された「薩摩種田」のルーツは藤原鎌足にたどり着きました。
恐らく間違いないと思います。
ここでもう一つの種田「美濃種田」の発祥について考えなければなりません。
美濃種田は、新田義貞から拝命した、という口伝が強烈に伝わっています。大垣市の種田さんはみんな口を揃えて新田義貞公から頂いた、と誇りにしているように見受けます。もし、本当にそうならば、新田義貞が生まれたのが1301年頃とされていますので、拝命されたのは1330年頃であろうと推測されます。
美濃種田については、次回のエントリー記事にて考察したいと思います。
入来院文書をご紹介頂いたことで、仮称:薩摩種田、美濃種田と系統を分けて考えることができました。
歴史に登場するご先祖たち種田某は、この二系に分けられるのではないかと考察中です。たとえば、代々鷹司家に仕えてきた種田貞行は薩摩種田系統、織田信長に仕えた小姓の種田亀は美濃種田系統のように。
どちらがどうというわけではありませんが、ご先祖を分析する際、この二系統を意識することで分類や分析しやすくなるのではないかと考えております。
いつか、系統立てられる日が来ると良いのですが・・・。
調査を進めてきて現時点で思うことは、種田の名前の発祥がどうであれ、ご先祖が守ってきた種田の名前を自分が引継ぎ、後世につないでゆきたい、という念が強くなってきた、ということですね。全国の種田さん、ともに繁栄を目指しましょう!
美濃国 の 種田(おいだ)という名字の由来
1920年、岐阜県大垣市東前で生まれた祖父は左官屋であった。
妻である祖母は伝来の田畑を一人で苦労して耕していたと自身の口から繰り言のよう(愚痴ともいう)に聞かされた。
1878年生まれの曾祖父母は土着の百姓であったとやはり祖母から伝え聞いた。
私の生まれた種田(おいだ)家は百姓の家系であろうと幼少のころから信じていた。
そんな私が数年前に『信長公記(しんちょうこうき)』と出会いました。
信長公記によると、ご先祖の一人である、「種田亀(または亀丸)、織田信長の小姓衆のひとり」が本能寺の変において、信長公と共に討死したとの記録があるではないですか。
もしかして種田(おいだ)一族はかつて武士ではなかったのか…。
このブログでは、種田(おいだ)という名字を持つご先祖様の足跡をたどります。
血がつながっていなくとも(曾祖母と祖父の年齢を考えると養子縁組であったと思われる)、種田の名字を継ぐものとして、種田一党の歴史を掘り起こして記録に残したいと思います。